うよきょくせつ

醜形恐怖症は治る!自力で克服した私の4つの考え方

私は、醜形恐怖症でした。

今でも少し残ってるかな?と思う時もありますが、自力で治すことができました。

 

そこで、醜形恐怖症で悩んでいらっしゃる方に向けて、どうやって治したか私の経験も交えてお伝えしようと思います。

 

 

醜形恐怖症とは

そもそも醜形恐怖症の定義とは

身体醜形障害(しんたいしゅうけいしょうがい、英: Body dysmorphic disorder ; BDD)あるいは醜形恐怖症とは、極度の低い自己価値感に関連して、自分の身体や美醜に極度にこだわる症状である。実際よりも低い自己の身体的なイメージが原因である。俗に醜形恐怖また醜貌恐怖とも呼ばれる。

『精神障害の診断と統計マニュアル』第5版のDSM-5では強迫性障害関連症群(スペクトラム) に含まれる。その強い強迫観念から身体醜形障害はうつ病を併発する割合もかなり高いとされる。

身体醜形障害 - Wikipedia

 

簡単に言うと、醜形恐怖症とは身体醜形障害とも呼ばれ、自分の体や顔の美醜に極端にこだわってしまう精神障害の1つということです。

実際には思い込みであることが多いのですが、極端に外見を気にすることで色んなことに支障が出てしまいます。

 

SNSなどの普及で日本でも増えています。

おそらく自覚していないだけで、醜形恐怖症の人はかなり多いと思います。

日本では1990年後半から多くなりだした。この内2割は引きこもりのような状況になるとされる。整形をする人も多いが、思い込みであることが多く、満足な結果が得られることは少なく、結果的に逆に顔を崩してしまうことさえある。この障害を持つ場合には、1日に何時間も自身の肉体的な欠陥について考えるようになり、極端に社会から孤立してしまうとされる。その結果として、学校を退学したり、仕事を辞めたりすることがある。また友人を作らなくなったり、離婚をすることもあるとされる。

身体醜形障害 - Wikipedia

 

外見を気にしすぎて、社会生活に影響が出てしまうというのは、醜形恐怖症を経験したことのない人にはなかなか理解されにくい症状です。

 

醜形恐怖症になった原因

小学生の頃に、私は学校でいじめられていました。

今から考えると、イジメというよりからかわれていたと言った方が正しいんでしょうが、当時の私にとっては辛いことでした。

 

それぐらいから、ふとある考えが浮かぶようになります。

「もし私が可愛い子なら、こんな扱いはされないんじゃない?」

 

学校に可愛い子ってたまにいますけど、そういう子ってなかなかイジメの対象にならないし、みんなに好かれて守られている(個人的な意見です)のが羨ましかったんでしょうね。

 

そう思うようになってから、事あるごとに、

「もし私が綺麗だったら?」

となり、さらには

「私が可愛くないからこんな目に合うんだ」

という認識になってしまいました。

 

まぁかなり間違った論理なんですが、当時はそう信じ込んでいました。

私は家庭環境が荒れまくってるところで育ったので、家庭でも学校でも居場所がなくて、本の世界だけが私の味方だったのも要因の1つかもしれません。

 

小説や漫画の中では、いつも美しい人が主人公なんですよね。女性でも男性でも。

たまにそうではない話もありますが、だいたいブサイクなモブは相手にされてません。

 

美しく魅力的に見える → みんなから好かれて求められる

みんなに嫌われている自分 → ブサイクで魅力がない

 

まぁ客観的に見てもブサイクだったかもしれませんが。

外見を気にしすぎるというのは小学生の頃から始まり、大学を卒業して結婚するまでは続きました。

 

醜形恐怖症の特徴

外出がとにかく辛い

外出することがとにかく辛かったです。

外出すると絶対人とすれ違いますが、それに耐えられないんですよね。

 

髪がボサボサなんじゃないか

顔の肌がパサパサで見られたくない

目も一重で小さいし

顔が長くて辛いし

足も短くてスタイル悪いし

こんな醜い私を見られたくない

 

ホントに怖いんですよね。

駅とかで人の集団の中に入ってしまったりするともう大変です。

パニック状態でした。

パニック過ぎて人から攻撃されるんじゃないかと心臓がバクバクいうくらい。

 

自分がブサイク → 周りの人が私に悪口を言うんじゃないかと心配になる → 言われた私の態度にキレてくる

 

みたいな(笑)

まぁ普通の人には理解されない心境ですよね。

 

とにかく人目がある場所がイヤでイヤで仕方なかったので、学生時代はできるだけ真夜中に外出してました。

基本的にいつも引きこもってたんですが、食料がなくなると餓死するので。

 

真夜中だと気楽に道を歩けるんですよね。

たとえ誰かとすれ違ったとしても、真っ暗なので、相手に私の顔が見えないので。

だから安心して外出できてました。

 

顔を隠すと安心できた

そういう症状だったので、日中はマスクをしてたら安心できましたね。

マスク+眼鏡+帽子というあやしい格好がいちばん落ち着きました。

それで怪しまれて私の方を見てきても、全然気にならないんですよね。

顔を見られてなかったら、視線を集めても怖くないんですよ。

視線恐怖症というわけではなかったです。

 

人の顔が見れない

人の顔が見れないというのも、症状の1つでした。

会話中でも、会話してなくても、人の顔がまったく見れませんでした。

人の顔を見てしまうと相手に私の顔が見えてしまうので、見れないんです。

目が合ったらしょっちゅう目をそらすという大変失礼なことばっかりやってました。

 

一日中自分の顔が気になる

そんなに人に自分を見られることを気にしていたんですが、とにかく自分の顔がどうなっているのか気になって仕方がないんです。

 

鏡があるなら鏡を見て、自分の顔をチェックします。

今日の目は良い感じ、でも肌が気に入らない、鼻の形がイヤだ、とか。

 

鏡がなくても、ガラスに顔が反射すると必ず見てしまうんです。

顔が反射する物って日常生活にはあふれていて、いたるところで自分の顔を確認して、自分の顔が嫌でしょうがない、交換したい、整形したい、なんて一日中考えていました。

 

自分の顔を写されるのに耐えられない

これだけ1日中常に自分の顔をチェックしていたにもかかわらず、自分の顔が撮られることは我慢できませんでした。

自分の顔がふいに何かに反射して映ることもストレスでした。

 

自分の顔を一日中、目が気に入らない、エラを削りたい、なんてあれこれ気にしているのに、ふいに自分の顔が何かに反射して見えることがストレスというのは矛盾していますが、自分の良い感じの顔が映るのは大歓迎なんです。

自分のイヤだなと思うパーツがはっきり映し出されて、自分は醜いんだという事実を突きつけられるのが辛くてしょうがないんですよね。

 

だから、なにかに自分の顔を映すときは、自分の理想とする顔でないと受け付けられないんです。

もし自分の理想ではない顔が映ってしまったら、もう嫌で嫌で仕方なくなって、一日中寝ても覚めてもそれしか考えられなくなってしまいます。

 

”人形のように”ではなく”人形に”なりたい

よくお人形さんのような顔になりたい、というセリフは聞くんですが、私の場合は、「人形になりたい」でした。

 

人形のように、ではないんです。

お人形さんになりたいんです。

 

人って生きている限り、変化するじゃないですか。

その変化がゆるせないんですよね。

 

たとえば顔にニキビができてしまったときなんて最悪ですよ。

でも人形ならニキビなんてできない。

 

人形なら、気に入らない顔だったら交換できますよね。

私も理想の顔に交換できるようになりたかった。

 

パッチリした大きな瞳と目鼻立ちがはっきりした整った顔に簡単になれるんです。

気に入らなければ替えればいい。

 

心の底からそうなりたいと思っていました。

 

 

どれだけ可愛くなっても満足できない

大学に入ると化粧をするようになって、ハマりました。

アイプチという二重を作れるアイテムは、マストアイテムとなり、毎日デカ目を作っていました。

 

自分の中では、

大きい瞳=生きる価値がある

だったんです。

 

でも、化粧のテクニックも上達して、アイプチで大きな目を作って、それなりに可愛い格好をして、たまに男性から可愛いと褒められても、まったく満足できないんです。

 

瞳が大きくなれば、次は鼻の形が気になる、面長なのもどうにかしたい、と言った感じで、もっともっとと気になることは増えていきました。

可愛くなりたいというドロドロした欲望には際限がないんです。

 

「私が醜いからあの人は私に冷たいんだ」

 

こういうことを本気で思ってました。

 

男性に告白されるようになっても

バイト先のお客さんから声をかけられるようになっても

道端でナンパされるようになっても

 

むしろ、「自分は醜い、もっと可愛くなりたい」というもはや妄執みたいなものはどんどん強くなっていきました。

 

醜形恐怖症以外にも強迫性障害があったのかもしれません。

 

revenge.hatenablog.com

人と接することが嫌で嫌でしょうがない

人と接すること、人と会話すること、仲良くなること、ぜんぶイヤでした。

自分の恥ずかしい顔を見られるのが苦痛で、誰かと一緒にいても、気になって仕方ないんです。

 

たとえるなら、自分だけ裸の状態で誰かと一緒にいるような気分というか。

自分だけ裸って恥ずかしいですよね?

どうにかしたいと思うはず。

隠したいし、気になって会話どころじゃないですよね。

 

そういう気分と同じです。

会話どころじゃないんです。

 

だから自分はもう社会でやっていけないんじゃないかと思っていました。

人と接することが苦痛で仕方ないって、もう学校に行くのも苦痛だし、働くのも苦痛だしで、どうしようもないんです。

これほどの苦痛を味わいながらみんな暮らしてるのかと思っていたんですが、実際はそんなことないんですよね。

 

普通の人のように生きれない自分が嫌で死にそうになる

普通の人のようには生きれない自分が嫌で嫌で、自己嫌悪でどうにかなりそうでした。

 

なんで自分は普通の人のようには生きれないんだろう?

そもそも自分の症状は治るものなのか?

もしかしたらこういう性格?一生苦しまないといけないの?

 

自己嫌悪しかないです。

 

働くことも苦痛なら、もうどうしたらいいの?っていう感じで。

ニート?生活保護?

いやもう死んだら楽になるんじゃないのって本気で思ってました。

 

精神科や心療内科に相談することも考えましたが、それで治るとは到底思えませんでした。

それに、知らない人にここまで自分の内情を暴露するのってかなり厳しいです。

自分でもおかしなことに悩んでいる自覚はありますから。

 

「自分が可愛くないから嫌で嫌で仕方ないんです」なんて言えませんでした。

 

醜形恐怖症を治した考え方

ここからは私が醜形恐怖症を直したきっかけとなった考え方を紹介していきます。

 

人はあなたの顔にそれほど興味はない

醜形恐怖症で苦しんでいた時には気付かなかったことですが、人ってそれほど他人の顔に興味はありません。

すごい美人さんとかなら、そりゃあみんな興味は持ちますけど、ちょっとかわいいなくらいの一般人の顔にはだれも興味なんてないです。

 

でも私は長いことその事実に気付きませんでした。

 

綺麗な人も綺麗じゃない人も、堂々と顔上げて歩いている

綺麗じゃない人という表現はダメかもしれませんが、私にとっては目からウロコの事実でした。

 

綺麗な人が堂々と道を歩くのは分かるんですが、普通の人もまったく気にせずに歩いているんですよね。

醜形恐怖症で苦しんでいた時ってだいたいうつむいて人の顔を見ないようにして歩いていたので気付かなかったんですが、普通の人も恥ずかしがることなく歩いているんです。

 

当たり前のことなんですが、当時の私にとってはもうすごく衝撃的でした。

 

「え、いいの?

綺麗じゃなくてもいいの?

可愛くなくても生きてていいの?」

 

これが正直な感想でした。

いかに私の考え方がゆがんだものなのか、よく分かると思います。

 

自分の顔がどう見られるかより、相手がどう感じているかを考える方が楽

つねに自分の顔を恥ずかしいと感じて、「見られたくない、どう思われてるんだろう」と冷や汗をかくぐらい心配しているより、会話している相手は今どんな感情で何を考えているんだろうと考えた方が楽だとようやく気付きました。

 

自分の顔はどう見られているの、

ブスだと思われてたら、

ああどうしよう、

イヤだイヤだ

と自分の顔を気にしているときって、延々と負のループが続くんです。

 

どうしようどうしようと不安で不安で仕方ないんですが、こうしたらいいんだ!という具体的な対策が浮かぶことはなく、ず~っと心配して悩んでいるだけです。

 

そうするよりは、会話している相手が

今どんな感情なのかな?

どういうタイプの人なのかな?

その人の癖は?

なんて分析している方がはるかに楽なんですよね。

 

「人と接することが苦手は人は自分のことしか考えていないから」とどこかで読んだので、意識的に相手のことを考えるようにしたら、うまくいきました。

 

私がこのことに気付くまでにすごく時間がかかりました。

このことに気付いてからは、人と接することがだいぶ楽になりました。

 

人の価値は、顔の美醜だけで決まるわけではない

「可愛くないと生きる価値がない」と本気で思い込んでいましたが、そうじゃないんだと知ることでだいぶ楽になりました。

 

いま私には旦那がいますが、旦那は美醜はそれほど気にしない人です。

もちろん身だしなみには気を使いますが、もし私が事故にあってエライ傷を顔に負ったとしても、あの人は気にしないと思います。

もちろん悲しんではくれると思いますが、それで私に対する感情が変化するかといったら、そうではないと思うんですよね。

 

私がそれまで知っていた男性たちが、チャラい人間ばかりだったのかもしれませんが、やはり可愛いか可愛くないか、美人か不細工かで態度が露骨に変わる人ばかりでした。

小さい時からそう感じていたので、大部分の男性はそうなのかもしれません(そうではないかもしれませんが)が、美醜を気にしない人が本当に実在することを知ったのは、衝撃的な出来事でした。

「人間は中身だ」なんて言葉もありますが、実際のところ、みんな言わないけど本当は「可愛いは正義なんだ」と思い込んでいました。

 

また、別の経験からでも「人の価値は美醜では決まらない」と思うようになりました。

私は大学卒業してから色んなことに興味を持ち始めて、いろいろ勉強するようになったんですが、そうした中でも、そう思うようになったんです。

たしかに美人だと得することも多いですが、その人の発言や考え方、アイデアなんかは美醜はまったく関係ありません

人の考え方、アイデアや生き方に感心することが増えたことで、上っ面より中身が重要なんだと思えるようになったんだと思います。

そもそも本やネットでは著者の顔なんてみんな気にしてませんし。顔よりも書かれている内容の方が大事ですよね。

 

人の美醜を気にしない人って、周りを見渡してみると案外いるんじゃないかと思います。

 

あの人綺麗だよね~

カッコいいよね~

なんてみんな言いますが、 可愛いからその人と一緒にいるっていう人は同姓では少ないんじゃないでしょうか。

異性に対してはやはりルックスは重視される点ですが、同性間では、綺麗だから一緒にいるという人は少ないというのが現実だと思います。

醜形恐怖症で考え方が歪んでいると、

綺麗 = 好かれる 

という図式が成り立っていると本気で思い込んでいるんですが、実際のところはそうでもないということが分かると、楽になると思います。

 

人の価値が美醜で決まるわけではないと気付くと、自分も周りに対して美醜で判断しなくなります。

可愛くない人には見下したり、可愛い人には嫉妬でどうにかなりそうだったりと、そういうことはしなくなり、ドロドロした感情とはおさらばできるので、もっと楽に生きられるようになると思います。

 

さいごに

私と同じように醜形恐怖症で苦しんでいる方に向けて、少しでも助けになればいいと思って書きました。

 

私もずっと苦しんで辛くてネットで色々調べたりしていましたが、同じように苦しんででも治ったという人の経験は見つかりませんでした。

自分の考え方が歪んでしまっていること、具体的にどう考えれば楽になれるのか、その当時に知ることができれば、私はもっと早く治っていたと思います。

 

症状は人によって違いますし、私の治し方が合わないという方もいると思います。

それでも、醜形恐怖症は治るものなんだということをこの記事で分かってもらえれば嬉しいです。